税 務 関 連 情 報

2002年12月25日-001
所得捕捉率の是正に“怒れ全国のサラリーマン”(23)

★「プライバシー」を“聖域化”する感覚(1)

 ここ数回の当連載では「プライバシー」といわれるものの実態を探ってきた。その結果、私たちは社会生活をしていく上での必要性から、または、必要性はなくとも無意識に多くの個人情報を公開、撒き散らしてきたことをお分かりいただけたと思う。多くの企業や官公庁などの公的機関にすでに個人情報が蓄えられているのが現実なのだ。

 ところで、マスコミなどが「プライバシー保護」というと、ほとんどの人がさして考えもせずに賛成してしまうのはなぜなのだろう。プライバシーというものが、保護されなければならない“聖域”のごとく錯覚させる何者かがあるのだ。それは、プライバシーという言葉に、公開されては恥ずかしい極めて個人的な情報の暴露を連想させるものがあるからだと考えられる。

 人間は「恥」というものを感じる唯一の哺乳類であり、特に日本人は歴史の中で「恥」を価値観を計る一つの尺度として位置付けてきた国民なのである。もっとも、恥といっても、その原因となる対象は、日本人としてとか武士としてなど一般的なものから、「我が家は貧乏で恥ずかしい」といったような卑近的なものまでさまざまであろう。もちろん、プライバシーに関していえば、卑近的なものからくる恥ずかしさにほかならない。

 例えば、裸体をさらすとか、音痴であるとか、肉体的なものから、収入や借金、病歴など生活状況に関するものまでいろいろな隠しておきたいものがあるが、それは人様々である。人によって公開されて恥ずかしいものは違うが、プライバシーを聖域化するのは、これらの極めて個人的・卑近的な情報がばれると恥ずかしいという意識が浮かぶからなのである。その意識は、ほとんど本能的・直感的なものである。

(以下次号に続く)

 

 

ホームへ戻る